東京高等裁判所 昭和59年(行ケ)279号 判決
(争いのない事実)
一 本件に関する特許庁における手続の経緯、本願発明の要旨及び本件審決理由の要点が原告主張のとおりであることは、当事者間に争いのないところである。
(本件審決を取り消すべき事由の有無について)
二 本件審決は、以下に説示するとおり、本願第三発明と引用例記載の発明との間の重要な相違点を看過し、ひいて、本願第一発明ないし本願第三発明は引用例記載の発明に基づいて当業者が容易に発明をすることができるものとの誤つた判断をしたものというべきであるから、違法として取り消されるべきである。
前示本願発明の要旨に成立に争いのない甲第二号証(本願発明の願書添付の当初明細書)、第三号証及び第四号証(いずれも手続補正書)を総合すると、本願発明の技術的課題ないし目的及びこれに基づく技術的思想は、次のとおりのものと認められる。すなわち、広い分野で利用されている従来公知の水酸化マグネシウムは、「例えば、熱可塑性合成樹脂に配合して該樹脂に難燃性を賦与するのにも利用され」(本願明細書第五頁第二行ないし第四行)ているが、「利用し得る難燃効果を賦与し得る量で熱可塑性合成樹脂に配合すると、該樹脂の物理的性質とくに耐衝撃性や伸びの悪化を伴い、且つまたこの組成物から成形品を成形する際の樹脂流れを低下せしめて成形適性を悪くし且つ成形能率を低下させる。更に又、得られる成形品のフラツシユ模様を生じて成形品外観を悪くするなどの不都合があ」つた(本願明細書第五頁第四行ないし第一一行)ところ、本願発明は、「このような不利益乃至欠陥は、水酸化マグネシウムが、本来有するその構造的特徴に由来するものであること……とくに、水酸化マグネシウムの有する構造上の歪、更には結晶粒子径が、上述の如き不利益乃至欠陥を生ずる重要な因子である」(本願明細書第五頁第一三行ないし第六頁第三行)との知見に基づいて、この欠陥を克服し、「優れた改善性質を有し且つ新規構造を有する水酸化マグネシウムを提供する」(本願明細書第九頁第九行ないし第一一行)こと等を目的として、本願発明の要旨のとおり(特許請求の範囲1、3及び4の記載に同じ。)の構成の発明、すなわち、本願第一発明において、従来公知の水酸化マグネシウムMg(OH)2とは異なる所定のX線回折構造を有することを特徴とする水酸化マグネシウム、例えば、熱可塑性合成樹脂配合用難燃剤、水性塗料用難燃剤、ケイ素鋼用焼鈍分離剤用酸化マグネシウムの前駆物などの用途に、従来公知の水酸化マグネシウムに比して著しく優れた作用効果を示す新規構造を有する水酸化マグネシウムを、また、本願第二発明において、その中間体である式Mg(OH)2・XAX・mH2O(ただし、式中AはCl若しくはNO3、Xは 0<X<0.2の数を示す、mは0~6の数)で表される塩基性塩化―若しくは塩基性硝酸―マグネシウムを、本願第三発明において、塩化マグネシウム若しくは硝酸マグネシウムとアルカリ性物質とを水性媒体中において、所定の割合で反応させて、前記中間体を含む反応生成物を形成し、該生成物系を加圧条件下で加熱して本願第一発明に係る水酸化マグネシウムを得る製法を開示したものであることが明らかである。他方、引用例(本願発明の特許出願前日本国内において頒布された刊行物であることは、原告において明らかに争わないところである。)に本件審決認定のとおりの記載があることは原告の認めるところ、右記載に成立に争いのない甲第五号証(引用例)を総合すれば、引用例記載の発明は、高純度の水酸化マグネシウムの製法に関する発明であつて、一般に、酸化マグネシウムは、海水又は苦汁中に苛性アルカリ又は消石灰乳を加えて反応せしめ、生成物を洗浄、脱水、乾燥して得られた水酸化マグネシウムを加熱して得られるが、この酸化マグネシウムは、Cl、SO4、などの不純物が多く、このため、該酸化マグネシウムを例えば、珪素鋼板用に使用する場合には酸化マグネシウムの被膜生成が阻害され、かつ、季節変動による酸化マグネシウム被膜の塗布のバラツキが生じるなどの欠点があつたところから、引用例記載の発明は、このような欠点を解消することを技術的課題ないし目的とし、従来公知の方法で得られた水酸化マグネシウムを特定の条件下、すなわち、水酸化マグネシウムにそのMgO量に対し〇・一五~三・〇%の水酸化ナトリウムを添加し、一・五kg/cm2以上の圧力で一二〇℃以上の温度に加熱することを特徴とする水酸化マグネシウムの製法を採ることにより、所期の目的を達し、Cl、SO4などの不純物が少なく、六角板状の結晶形をもつ高純度の水酸化マグネシウムを得ることを可能にしたものであること、並びにその発明の詳細な説明の項中実施例1の説明として、「苦汁中のMgSO4をCaCl2によりCaSO4として沈澱除去した脱硫苦汁を原料として用いた。その組成はCaOとして一五g/l、MgOとして四〇g/lであつた。精製石灰乳はCaOとして一〇〇g/lのものを使用した。この苦汁中のMgO一〇〇に対し、使用精製石灰乳中のCaO六五の割合で、苦汁中に石灰乳を投入し、三〇分間攪拌して反応させた。次いで上澄液を除去し、沈澱をそのMgO一トンに対し水五〇トンを使用して静置洗浄して水酸化マグネシウムのペーストとなし、これを減圧下に脱水した。水酸化マグネシウムの水分含有量は七〇%で、不純物の量はMgO換算で表わすと、次のとおりであつた。Cl〇・二五% SO4一・〇〇% CaO〇・三九%」との記載(引用例第二頁第四欄第三四行ないし第三頁第五欄第六行)、及び実施例2の説明として、「海水を砂濾過したのち硫酸を加えてpH四まで酸性とし、空気を吹き込んで脱炭酸したものを原料海水として用い、海水中のMgOに対する石灰乳の使用量は九〇%とし、石灰乳濃度は九〇g/lとした。他の条件については公知の方法によつた。濃縮沈降槽で水酸化マグネシウムスラリーを濃縮し、更にMgO換算一トンにつき水二〇トンを使用して静置法で洗浄したのち真空で脱水した。この水酸化マグネシウムの純度は」MgOに対する%で「Cl〇・〇九%、SO4〇・六四%、CaO〇・八四%」であるとの記載(引用例第三頁第五欄第二八行ないし同頁第六欄第七行)のあることが認められ、右記載によると右実施例1及び2の水酸化マグネシウムは引用例記載の発明にいう被処理物質である公知の方法で得られた水酸化マグネシウムに相当するものと認められる。
ところで、原告は、本件審決が本願第三発明と引用例とを対比するに当たり、本願第三発明における中間体が形成される工程を引用例の前認定の実施例1及び2の工程に対応するものとしてとらえ、本願第三発明と引用例記載の発明とがMg(OH)2―xClx(ただし、xは0<x<0.2の数を示す。)の式に含まれる塩基性塩化マグネシウムを形成し、水性媒体を含む該生成物系を加圧条件下に加熱することにより結晶格子の歪の少ない水酸化マグネシウムを製造する点で共通する旨認定判断した点をもつて誤りである旨主張する。よつて、この点について検討するに、前掲甲第二号証及び第四号証によると、本願第三発明の中間体の性質ないし性状については、本願明細書中の発明の詳細な説明の項に、「比較的不安定な化合物であるが、反応母液中では比較的安定である」(甲第四号証第六頁(9)項)旨及び「オートクレープで処理するまでの反応終了時からの時間を二時間で行つた。これは上記不安定な物質が分解されない間に水熱処理をするためである。」(甲第二号証第二八頁第一二行ないし第一五行)旨の記載があることが認められ、右記載に成立に争いのない甲第六号証(実験報告書その一)を総合すると、本願第三発明の中間体は、不安定な物質であり、水による洗浄で消滅してしまい、水酸化マグネシウムになる性状のものであることを認めることができる。一方、引用例記載の発明において、処理対象となる水酸化マグネシウムは、前認定の実施例のように公知の方法で得られた水酸化マグネシウムであり、引用例記載の発明にあつては、前認定の引用例の技術的課題ないし目的及び解決方法に照らすと、出発物質としては、水酸化マグネシウムのみを認識していたものであつて、本願第三発明の中間体、すなわちその組成の中に水酸化マグネシウム以外の他の物質の存在を予定し、これを利用するという技術的思想があつたものと解することができず、かえつて、水酸化マグネシウム以外の他物質を排除することを技術的思想とするものと認められる。そして、引用例記載の発明の右技術的思想に本願第三発明の中間体が前認定のとおりの比較的不安定な物質で水による洗浄で消滅しやすいものであることを勘案すると、引用例記載の発明において、出発物質としての水酸化マグネシウムを生成する反応過程で本願第三発明の中間体に相当する化合物が生じているとしても、苦汁中に石灰乳を投入して反応させた後、反応生成物である沈澱を水を使用して静置洗浄し、水酸化マグネシウムのペーストにした時点では、中間体は分解されて消滅するか、又はほとんど消滅に等しいものとなつているものと解するのが相当であり、これを覆すに足りる証拠はない。したがつて、本願第三発明と引用例記載の発明とが、塩化マグネシウムとアルカリ性物質とを反応せしめた後の水酸化マグネシウムペーストを得る処理操作において同じであるとはいえず、引用例記載の発明において、本願第三発明の中間体と同一の塩基性塩化マグネシウムが形成されているものとは到底認めることができない。この点に関し、本件審決は、引用例記載の発明における出発物質である水酸化マグネシウム中に含まれているClをマグネシウムと結合しているものとみたうえで、引用例記載の発明においても、本願第三発明の中間体に相当するものが形成されている旨判断しているが、前認定したところから明らかなように、引用例記載の発明は、このClを高純度の水酸化マグネシウムを得るには不都合な不純物としてとらえ、これを除去することを意図したものであるのに対し、本願第三発明はこのような不純物として認識されているClを有用性のある中間体を組成する要素としてとらえるものであつて、両者はその技術的課題、その解決方法を全く異にし、したがつてまた技術的思想を異にすることは明らかである。そうすると、本願第三発明と引用例記載の発明とが、共に、中間体として、Mg(OH)2-xClx(ただし、xは0<x<0.2の数を示す。)の式に含まれる塩基性塩化マグネシウムを形成している点で共通するとした本件審決の認定判断は誤りというべきである。
そして、右の点についての本件審決の認定判断の誤りは、本願第三発明と引用例記載の発明との対比判断における重要な相違点に係る事柄であり、本願第三発明の進歩性を否定した本件審決の結論に影響を及ぼすことは明らかであり、更に、本願第一発明及び本願第二発明についての判断をも左右するものであるから、その余の点につき判断を加えるまでもなく、本件審決は、違法として取消しを免れない。
(結語)
三 以上のとおりであるから、本件審決の違法を理由にその取消しを求める原告の本訴請求は、理由があるものとしてこれを認容する。
〔編註〕 本願発明の要旨は左のとおりである。
1 下記式
Mg(OH)2
で表わされ且つX線回折法における<101>方向の歪が3.0×10-3以下で且つ該<101>方向の結晶粒子径が八〇〇Åを越えることを特徴とする水酸化マグネシウム(特許請求の範囲1)(以下「本願第一発明」という。)
2 下記式
Mg(OH)2-xAx・mH2O
但し式中AはClもしくはNO3、
xは0<x<0.2の数を示す、
mは0~6の数、
で表わされる塩基性塩化―もしくは塩基性硝酸―マグネシウム(特許請求の範囲3)(以下「本願第二発明」という。)
3 塩化マグネシウムもしくは硝酸マグネシウムとアルカリ性物質とを水性媒体中において、塩化マグネシウムもしくは硝酸マグネシウム一当量に対してアルカリ性物質〇・五―〇・九五当量の割合で反応させ、下記式
Mg(OH)2-xAx・mH2O
但し式中AはClもしくはNO3、
Xは0<X<0.2の数を示す、
mは、0~6の数、
で表わされる塩基性塩化―もしくは塩基性硝酸―マグネシウム含有反応生成物を形成し、該生成物系を加圧条件下に加熱することを特徴とする下記式
Mg(OH)2
で表わされ且つX線回折法における<101>方向の歪が3.0×10-3以下で且つ該<101>方向の結晶粒子径が八〇〇Åを越える水酸化マグネシウムの製法(特許請求の範囲4)(以下「本願第三発明」という。)